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たいへん日記

私へ●たいはかせの日記、と言うよりは雑記です.
日々の出来事を書いていくのではなく、普段から思っていることをとりとめもなく書いていくつもりです.
とかなんとか言いながらも日々の行動の記録が大半を占めているあたりがニントモカントモ...

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2007年07月21日(Saturday) 寂れてしまう古寺を眺める日々

_ [神社仏閣] 古寺巡礼その22 : さびれてしまう元興寺

久しぶりに奈良の元興寺に行ってきました.
なんとまぁ5年ぶり.
5年前に行った際の日記はこちら

元興寺の本尊は智光曼荼羅図です.
智光さんは天平時代の元興寺のえらいお坊さん.
智光曼荼羅は、智光さんが夢の中で、すでに死んだ同僚のお坊さんに極楽浄土で再会し、極楽浄土のさまを感得する云々と言った情景を絵に表したものです.
奈良女子大の図書館のページでデジタル画像を見ることが出来ます.
http://mahoroba.lib.nara-wu.ac.jp/y03/mandara/

本堂には外国人が何人か見学に訪れていました.
家の中で靴を脱がない欧米人なのか、脱いだ靴が揃えられていずにあっちこっちを向いていました.
異人さんはこの寂しいお寺で何を見てるのでしょうか?
元興寺極楽坊元興寺本堂内部元興寺本堂内部

本堂を見学してから収蔵庫に行ってみました.
収蔵庫の方は相変わらずあまりきれいに整備されていません.
お金がないんでしょうね.
真言律宗ってお金がないのかな.
真言律宗って西大寺の下ですよね.
西大寺も地味ぽいもんなぁ.

_ 収蔵庫には国宝の五重小塔が収められています.
天平時代の五重塔建築で唯一現存するものであり貴重なものです.
でもでも目立たないんですよ.
法隆寺の大宝蔵院のような展示が出来ればいいんでしょうに.
どうも華やかさのないお寺なんです.
本尊が曼荼羅図だというのも華やかさから遠ざかっている原因なのかも.
格は興福寺と同格、歴史はそれ以上のお寺の筈なのですが、ならまちの住居の中に埋もれてしまっている現状や、立派な塔 (小塔ではちょっと...) や大仏と言った派手な目玉がないのが寂しいところです.
「世界遺産と奈良観光について」によると、毎日放送のウォークラリーが奈良に3万人を集めた日に元興寺に立ち寄った人はわずか500人だそうな.
同日に近所のならまち格子の家が来館者6千人だそうです.
やっぱり人を集められない元興寺なのね.

_ [神社仏閣] 古寺巡礼その23 : 元興寺の中で極楽坊だけが残った理由

火事などで分断されすっかり荒れ果てた元興寺ですが、その中でも極楽坊だけがこうやって残っているのは、
「もともとの元興寺のうちで極楽坊の部分には工事が行き届かず塀がなかった.」
「塀がないために僧職だけでなく庶民が出入りする事が出来た.」
「そのため極楽坊は庶民信仰の中心となった.」
「元興寺の寺勢が衰えるようになっても庶民の支えにより極楽坊だけは生き残っていくことが出来た.」
ということをお寺の人が言っていました.
ホントかな?

_ 元興寺は平安時代中期以降に衰えました.
平安後期浄土教が盛んとなる時代になって、前述の智光曼荼羅が信仰を集めるようになりました.
やがて、智光さんが住んでいたとされる僧坊の一室が念仏道場となり、極楽房と呼ばれるようになりました.
極楽房は次第に元興寺本体から独立するような形になっていきました.
僧坊はそれに併せて仏堂などを備えた今の形に改築されたのです.
これが今の極楽坊.
1411年に元興寺から独立した寺院となりました.

_ 元興寺本体は平安中期から次第に衰え、鎌倉時代に講堂・食堂などいくつかの建物が失われてゆきます.
室町時代(1452)には火災に遭い金堂も焼失.
金堂はさすがに仮堂を建てるのですが(1472)に倒れることになり、以降は元興寺としてのまとまりをなくしていきます.
残ったパーツのうち観音堂・中門・五重塔のグループと、西塔のグループが分かれることになります.
やがて中門も倒れ、奈良時代の元興寺は民家に埋もれその中に観音堂(五重塔を含む)、小塔院(西塔)、極楽坊の三寺院が散在する形になったのです.
江戸時代後期(1859)には五重塔と観音堂が焼失し、天平時代の建築はなくなってしまいます.
観音堂焼失後に小堂が再建され、これが今の元興寺(塔跡)です.

_ 極楽房は現在の「元興寺極楽坊」で西大寺の末寺、宗派は真言律宗.
観音堂は現在の「元興寺(塔跡)」で東大寺の末寺、宗派は華厳宗.
小塔院は遺跡のみが残っていますが、管理は極楽坊の方が行っているようです.