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たいへん日記

私へ●たいはかせの日記、と言うよりは雑記です.
日々の出来事を書いていくのではなく、普段から思っていることをとりとめもなく書いていくつもりです.
とかなんとか言いながらも日々の行動の記録が大半を占めているあたりがニントモカントモ...

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2008年01月14日(Monday) 大昔の建設族たちを偲ぶ日々

_ [神社仏閣] 古寺巡礼その24 : 東大寺大仏殿にいってきました.

寒い寒い.

新薬師寺に行って十二神将像を見るつもりで家を出たのですが、すんごく寒かったので行き慣れた所に行き先変更、大仏さんを拝んできました.
ついでに奈良市内でいくつか買い物も.

_ [神社仏閣] 古寺巡礼その25 : 奈良の大仏さんの造営前夜

奈良の大仏 (盧舎那大仏) はよく知られているように聖武天皇が願主となって造られました.
この大仏造顕事業は藤原仲麻呂と橘諸兄の勢力争いの中で藤原氏が勢力を伸ばすために利用されたものと言う面があるそうです.
歴史の本を読むと、聖武天皇がけっこう厄介な人だった事が分かります.

_ 大仏建立までのこの時代の歴史をまとめてみます.

大仏造顕直前の時代は、藤原不比等の死→長屋王を首班とする体制→藤原氏の讒言による長屋王の惨殺→藤原四兄弟体制→天然痘流行に拠る藤原四兄弟を含めた有力者多数の死去、と政局が揺れ動いていました.
聖武天皇は有力な貴族=政治家を天然痘流行により多数失った後、積極的に政治に関わろうとなりました.
ここに橘諸兄大納言を首班とする体制が成立します.
諸兄の政治は、聖武天皇の意向を具現化するためのもので、強力なものでもなく主体性も少ないものでした.
四兄弟を失った藤原氏はこの体制の下ではそれまでの時代に較べて体制への影響力がダメダメになっています.
そんな時代に聖武天皇が大仏造顕を決め、これを勢力争いのコマとして藤原氏と橘諸兄が厄介な事になっていきます.

そんな時代のおはなし.

_ [神社仏閣] 古寺巡礼その26 : 奈良の大仏さん造った聖武天皇ってダメダメやん

登場人物.

聖武天皇時の天皇陛下.あっちにふらふら、こっちにふらふらな困ったちゃん.
橘諸兄政府でのいちばんえらい人.天皇の言うことはちゃんと聞く.藤原氏の影響力を薄めたいと思っている.
光明皇后聖武天皇の皇后(藤原氏出身)、ダメダメになった藤原氏を盛り返そうと画策
玄昉、良弁僧、国政におかまいなく諸国国分寺造営や大仏造営を聖武天皇に勧める.空気の読めない人物
吉備真備学者、国政におかまいなく諸国国分寺造営や大仏造営を聖武天皇に勧める.空気の読めない人物
藤原広嗣空気を読めない玄昉、吉備真備にガマンならない.
藤原仲麻呂落ちぶれた藤原家をなんとかして出世したい野望家.

_ 天皇にあまり力を及ぼせない橘諸兄体制の下、本来政治とは関係ない後宮に近い僧玄昉と学者吉備真備が聖武天皇に影響力を及ぼし、政治にまで影響が及んでくるようになりました.
長屋王の変、天平の凶作、天然痘流行など体制が揺らぎ庶民が苦しむ中、玄昉と真備が聖武天皇に勧め、聖武天皇は全国に国分寺を建立することを決めます.(737年)

_ 740年
諸兄はイヤだなーとは思っても聖武天皇の命じるままに国分寺建立の準備を進めます.
これってカネかかるし、天災の後遺症に苦しむ庶民に新たな負担を与えるものなのよ.
国分寺創建の思想は「国奏らかに人楽しみ、災除き福に至る」との事なのですが、それを最も願う庶民が酷使される事になるのです.
「玄昉とか真備とか政治と関係ないやん、首突っ込むなよ、今は国分寺どころと違うでー」と、この状況に疑問を感じた藤原広嗣が挙兵します.
広嗣の乱は政府軍に鎮圧されますが、広嗣の意志は受け入れられ、玄昉や真備の力は削がれる事になります.(740年)

_ 741年
この前後聖武天皇は平城京から恭仁京にふらふらーっと遷都を行います.
恭仁京遷都には、
天皇がこの状況に嫌気をさした、
天皇が藤原氏の影響の強い平城京から離れたい、
橘氏の力の強い恭仁京への遷都を諸兄が薦めた、
橘諸兄が聖武天皇と藤原氏の関係を切り離したかったなどの理由があるようです.
この遷都で橘諸兄はガッツポーズ.

_ 741年
一方藤原氏側はと言えば、藤原氏の勢力が薄れるのを恐れた光明皇后 (藤原氏出身) が国分寺に安置する仏像建立のために藤原氏の私財を封戸を寄付する.
これによって聖武天皇の藤原一族に対する好感度アップ.

_ 742年
「玄昉や真備の影響が亡くなった心のスキマを埋めてさしあげます」
と僧良弁が天皇に近づきます.
この良弁が大仏や国分寺をさらに聖武天皇に勧めていきます.
(寺や仏が増えると僧職はウマー!だぜ)
良弁に従い聖武天皇は紫香楽離宮 (当初大仏は信楽に建築予定) を造営されます.

_ 743年
で、聖武天皇はふらふらーっと紫香楽離宮へ行幸.
紫香楽離宮へ行幸すると言う事は聖武天皇が大仏造顕へと近づく事なのですが、すでにお国の体制は恭仁京の造営、国分寺の造営でいっぱいいっぱい.
「この上に大仏の造営まで行うの?」
諸兄は自分に都合のいい恭仁京造営が破綻するのでは、と懸念し大仏造顕には反対します.
そんな中、聖武天皇に近づくため藤原仲麻呂、光明皇后は大仏造顕を推し進めます.
聖武天皇は心を動かされ大仏造顕の詔が出されるのです.
藤原家は聖武天皇の心を動かしたのですが、この大事業の責任は政府首班の諸兄が持たねばならない、諸兄はクッソー、仲麻呂はヤターとなるのです.

_ 743年.
勢いに乗る仲麻呂が聖武天皇に
「紫香楽に大仏造りまっせ.そのために紫香楽宮を拡張せなあきません.そっちにカネかかるし恭仁京工事はやめましょ」
と薦め恭仁京造営工事は中止されます.
自分の勢力圏に都が来る筈だった諸兄ガックリ.
大仏が最優先となってるのを仲麻呂がうまく利用したのですよ.

_ 744年
ここで諸兄の反撃.
「恭仁京の工事中止するのなら都は恭仁京? 難波宮? どっちにすんのよ?」
藤原氏の息のかかった平城京、紫香楽宮は無いことにして話を進めていきます.
そんなこんなで聖武天皇、ふらふらーっと難波宮に移っちゃいます.
諸兄ニンマリ.
こないなったら最後の手段や」
藤原氏により天皇の後継者と目される安積親王が謎の死.
安積親王は天皇の跡継ぎ候補のうち藤原家の息がかかっていない者の最有力者です.
諸兄ショボーン.

_ 体制はワケワカメに、聖武天皇はますますふらふらと.
仲麻呂は大仏造営を、諸兄は難波宮遷都を、それぞれ進めていきます.
難波宮皇都宣言が出される中、同時に聖武は紫香楽へ移る.
もうどっちが優先なのかワケワカメ.
紫香楽での大仏造営が進む.
対抗して諸兄は紫香楽周辺に放火.
また聖武はふらふらーっと恭仁京へ移動.
さらにふらふらーっと平城京に帰ってきます.
仲麻呂の完全勝利なのよ.

_ 745年
藤原氏の勢力範囲である平城京の中でも特に藤原氏の支配地平城京東部に大仏が造られる事が決まります.
これが今にまで伝わる奈良の大仏となります.

_ [神社仏閣] 古寺巡礼その27 : 今に伝わる奈良の大仏さん

創建に際してのドタバタはとても誉められたものとは言えないと思います.
繰り返された遷都、国分寺創建、新京の放棄、信楽大仏の放棄、など勢力争いは無駄を呼びすぎ.
勢力争いを招いた聖武天皇のええかげんな行動.
この時代の政治家たちは庶民階級をどう考えていたものなんでしょうね?

この後、奈良での大仏造営が始まってからも、巨大プロジェクトへの投資による財政事情の悪化、それに伴う農民層の負担増大など、後先考えない聖武天皇の悪影響は続いてゆきます.
アマルガムを使っての金メッキによる平城京の水銀汚染.
材木の伐採による山林破壊.

_ そんなこんなで地上に出来上がった奈良の大仏.
平重衡の南都焼き討ち、鎌倉時代の復興、永禄の変、江戸時代の復興を経て今にまで東大寺は残っています.
創建時にはいろいろあったものですが、昔のものを何代もの人たちが大事に大事に伝えてきた事を思うと涙がちょちょ切れてきます.